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宮崎地方裁判所 昭和44年(ワ)152号 判決

原告

池沢健二

池沢節子

右原告ら代理人

持永祐宣

被告

松村雄二

右代理人

小倉一之

主文

一、被告は原告らに対し、それぞれ金一〇〇万円およびこれに対する昭和四四年四月一七日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二、原告らのその余の請求を棄却する。

三、訴訟費用はこれを二分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

四、この判決は第一項に限り仮りに執行することができる。

事実

第一、原告らの申立

一、被告は原告らに対し、それぞれ金二〇〇万円およびこれに対する昭和四四年四月一七日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二、訴訟費用は被告の負担とする。

との判決ならびに仮執行の宣言。

第二、請求原因

一、本件診療契約の締結

原告健二・節子は訴外亡池沢真司(昭和四二年八月一四日生、以下真司という)の実父母であり、被告は肩書住所地において医院を開業している医師である。

昭和四三年一二月七日原告らは被告との間に真司の陰嚢水腫の根治手術(以下本件手術という)を目的とする診療契約を締結した。

二、本件手術の施行と真司の死亡

前項の契約に基づき、前同日、被告は真司に対して全身麻酔を施こした後本件手術を施行したが、それを終え、皮膚の縫合にとりかかつたとき、突如真司は絶息した。

被告は真司に対して人工呼吸や酸素吸入を講じたが、奏功せず、同日午後五時死亡した。

三、被告の債務不履行責任

(一)、被告は前記契約の債務者として、債務の本旨に従い、善良なる管理者の注意をもつて本件手術をなすべき義務、すなわち現代医学における知識と技術についての認識をもちそれを駆使して適確な診断をくだし、適切な治療をなすべき義務があつた。

しかるに被告は(二)項掲記のとおり、右義務に違反して本件手術をなし、真司を死亡せしめるに至つたものである。

従つて被告はその債務不履行責任に基づき、真司の死亡により生じた損害を賠償すべき義務がある。

(二)、1、麻酔施用による手術においては、不完全気道閉塞を生じ、副交感神経反射作用とあいまつて舌根沈下あるいは心停止・呼吸停止の危険が発生することがあるから、万一の場合を予見して右危険の発生を未然に防止する措置を講ずずべきであつたのに、被告は何ら右の措置を講じなかつた。

また事前に検血・血液型・心電図・胸部X線撮影・体温および体重の測定等の諸検査をし、原告らに対しては問診をすべきであつたのに、被告はこれならの諸検査をまつたくせず、問診も不十分であつた。

2、筋肉内注射による全身麻酔は危険を伴なうものであり、ことに乳幼児についてはその危険性が高いので現在はほとんど用いられていない。しかるに被告は真司の臀部筋肉内に全身麻酔のための注射をした。

麻酔施用にあたつては、適量の麻酔剤を使用し、深麻酔時に手術を施行すべきであるのに、被告は適切な薬量や手術開始時についての適確な知識を有せず、適解不足の麻酔剤を使用し、かつ麻酔覚醒期に本件手術を施行した。

3、真司の死因は不完全気道閉塞あるいは低酸素症および炭酸ガス蓄積の副交感神経反射による舌根沈下あるいは心停止ひいては呼吸停止と考えられるが、かかる場合には適切な蘇生術を講ずれば蘇生する可能性は極めて高い。

しかるに被告は右死因についての察知も知識もなく、そのために適切な蘇生術を講じなかつた。

四、損害

真司は原告らの次男であり、原告らは同人の将来に期待するところ大であつたが、本件医療過誤により同人を失ない、甚大な精神的苦痛を蒙つた。この精神的損害に対する慰藉料は原告ら各自について二〇〇万円が相当である。

五、予備的請求

仮りに被告に債務不履行責任がないとしても、前三項(二)掲記の被告の過失によつて真司は死亡したのであるから、被告は不法行為に基づく損害賠償義務を負う。そして原告らが取得すべき損害賠償額は前項と同額である。

六、以上のとおりであるから、原告らは被告に対しそれぞれ金二〇〇万円およびこれに対する訴状送達の翌日である昭和四四年四月一七日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三、請求原因に対する答弁

一、請求原因一・二項の事実は認める。

二、同三項(一)の事実は否認する。

同項(二)の事実中被告が真司の臀部筋肉内に全身麻酔のための注射をしたことは認める。

三、同四項中損害額は否認する。その余の事実は不知。

四、同五項の事実は否認する。

第四、抗弁

一、(一)、被告は真司に対し、本件手術前の昭和四三年一一月一三日と同月一六日に穿刺排液による加療をしたが、その際真司を診察し、また本件麻酔前にも同人の全身状態につき視診・聴診を行なつた。その結果真司には何らの異常も認められなかつたので、本件麻酔・手術を施行したものである。

保険医としては視診・聴診によつて異常が認められなければ心電図をとる必要はない。不必要な検査をした場合には、査定で診療給付金を削除されるし、保険医の資格を剥奪されることもある。

(二) 最深麻酔時に手術を施行することは事故が発生した場合に対する器具・設備等を有しない一般開業医にとつては不可能である。

(三)、被告は人工呼吸・酸素吸入のほか、ビタミン・テラプチク・ジキタミン等の強心剤を投与し、適切な蘇生術を講じた。

二、右のとおり被告はその全能力をもつて術前検査、本件麻酔・手術および蘇生術に努力したものであつて、何ら注意義務違反はない。

一般開業医たる被告に、被告がなした以上の処置を期待することは不可能であつて、真司の死亡は不可抗力によるものというべく、被告には責に帰すべき理由がない。

第五、抗弁に対する答弁

抗弁事実は否認する。

理由

一、本件診療契約の締結

請求原因第一項の事実は当事者間に争いがない。

ところで原告らと被告との間の本件診療契約は、被告が真司の病的症状を解明し、その症状に応じた治療行為(手術)をなすことを目的とする準委任契約であると解するのが相当である。

二、本件麻酔・手術の施行と真司の死亡

(一)、被告が真司の臀部筋肉内注射による全身麻酔をしたこと、被告が本件手術を施行したこと、それを終え、皮膚の縫合にとりかかつたとき、突如真司が絶息したこと、被告が人工呼吸や酸素吸入をしたこと、真司が一二月七日午後五時死亡したことはいずれも当事者間に争いがない。

(二)、〈証拠〉ならびに前記争いのない事実を総合すると、つぎの事実が認められる。

1、一二月七日午後二時ごろ被告は本件手術に先だち全身麻酔をなすべく、オウロパンソーダ0.5gを20CCの蒸溜水で溶解したもの8CCを真司の臀部筋肉内に、2%のオピスコ0.2CCを腕にそれぞれ注射した。

なお右麻酔施用前に、被告は真司の全身状態につき、記録上詳細を確め得るような視診・聴診・触診・問診や検血・心電図・X線撮影・体温測定等の諸検査を行なつていない。

2、午後三時ごろ真司はいまだ他人を認識して泣く程度であつたので、被告の指示により杉尾準看護婦が前記濃度のオウロバンソーダ4CCを真司の臀部筋肉内に注射した。

右麻酔剤投与後真司は麻酔状態に入つた。

3、午後三時四〇分ごろ被告および看護婦(四人)は手洗を終え、本件手術に着手した。

本件手術に先だち局所麻酔のため、被告は1%の塩酸プロカイン2CCを注射すべく、まずごく少量を真司の陰嚢に注射し、真司に異常が認められなかつたので、二分後に残液全部を注射した。

本件手術着手時には真司の心搏・呼吸状態に異常は認められなかつた。

本件手術は最深麻酔期を通り過ぎ覚醒にむかう時点で開始された。

4、本件手術中真司がとくに暴れるというようなことはなかつたが、いびきをかいていた。

5、午後四時一〇分ごろ本件手術を終え、皮膚の縫合にとりかかつたとき、突如真司の心搏と呼吸がほとんど同時に停止した。

心停止・呼吸停止の際真司が暴れたりするようなことはなかつた。チアノーゼ症状はなく、血液が黒色に変化するようなこともなかつた。

6、被告は圧迫式人工呼吸や手術室に備え置いてあつた酸素ボンベや挿管器具を使用して、真司の口腔内に酸素吸入を講じた。またビタカンを真司の静脈内と皮下に、テラプチクを静脈内と筋肉内に、ジキタミンを皮下にそれぞれ注射した。

7、人工呼吸や酸素吸入は約四五分間続けられたが、真司は蘇生せず午後五時死亡した。

三、真司の死因について

(一)、前二項で認定した事実よりすれば、真司の死亡の直後の原因が心停止・呼吸停止によるものであることは明白である。

そこで心停止・呼吸停止に至つた原因について検討する。

(二)、鑑定人宗行万之助・同壇健二郎の各鑑定結果(以下それぞれ宗行鑑定・壇鑑定という)によれば、オウロパンソーダが呼吸中枢を抑制し、そのために呼吸停止ひいては心停止の結果が生ずることのあることが認められるけれども、後記認定のとおリオウロパンソーダは超短時間作用性(作用時間三〇分ないし一時間)を有すること、前二項で認定したオウロパンソーダ投与から心停止・呼吸停止に至るまでの時間とを併せ考えると、オピスコ併用との相乗作用を考慮に入れても、真司の心停止・呼吸停止とがオウロパンソーダの単なる呼吸抑制作用による呼吸麻痺に起因するものであつた可能性は極めて少ない。

(三)、宗行・壇各鑑定によれば、オウロパンソーダやオピスコに対する特異体質は極めて少ないことが認められ、かつ本件においてはこれらの麻酔剤投与後かなりの時間を経た後に心停止・呼吸停止が発現していることからして、これらの麻酔剤に対して真司が過敏に反応し、右の結果を生じたとは考えられない。

さらに右各鑑定によれば塩酸プロカインに対する過敏反応の発現する事例が稀に報告されることのあることで認められるけれども、前二項で認定したとおり、被告は塩酸プロカインを真司に対してごく少量注射したが、異常が認められなかつたので残液を投与したこと、心停止・呼吸停止の生じたのが右麻酔剤投与後三〇分を経た後であつたことからして、これまた過敏反応によるものとは考えられない。

(四)、1宗行・壇各鑑定によればつぎの事実が認められる。

(1)、オウロパンソーダは超短時間作用性を有し、麻酔状態への導入は極めて早いけれども、麻酔状態にあるのはごく短時間であつて、投与後三〇分も経過すると、覚醒状態に近づく。従つて手術可能の時間は投与後三〇分から精々一時間以内である。

(2)、オウロパンソーダの薬理作用によつて呼吸中枢が抑制され、炭酸ガスに対する呼吸中枢の感受性が低下し、また低酸素症をきたすことがある。

またオウロパンソーダは副交感神経刺激作用を有し、喉頭痙攣を起しやすい。

(3)、小児は解剖学的・生理学的につぎのような特徴を有している。

呼吸の型はシーソー型であつて、吸気相にかえつて胸部がおちこむような呼吸をする。胸部は弾力性があり不安定でしつかりしていない。筋肉の発達は弱い。頭部は大でかつ重い。上咽喉部は狭く、頸は短く、喉頭は成人に比して高位にあり、舌は口腔に比して大でかつ粘液腺の分泌は旺盛である。

これらの特徴は気道閉塞を助長する要因となる。

またまた代謝機能が不完全であつて低酸素症をきたしやすい。

(4)、また麻酔が浅い状態で手術が行なわれると反射運動が充進し、気道の不完全閉塞を起すことがある。

不完全気道閉塞があると、(イ)舌根の沈下により完全気道閉塞を生じ、窒息のため心停止・呼吸停止の起ることがある。あるいはまた不完全気道閉塞は(ロ)低酸素症や炭酸ガス蓄積を生じ、これらが副交感神経反射を強める。そして手術部位あるいはその周囲組織の操作に際して反射性に心停止・呼吸停止を起すことがある。

麻酔が浅くなるに従い、右症状の発生率は増加する。

また泌尿生殖器は副交感神経反射を誘発しやすい部位である。

右(イ)の原因によつて心停止・呼吸停止が生ずる場合の一般的特徴としては、被術者が手術中に暴れることが多いこと、まず呼吸停止が発現し、その後も心搏が残り、若干の時間を経た後に心停止となるのが通常であること、呼吸停止の生ずる前にチアノーゼ症状を呈し、また血液が黒色に変ずること等がある。また(ロ)の原因によつて心停止・呼吸停止が生ずる場合には心停止があつた後一〇秒ないし一五秒以内に呼吸停止となる。

2 ところで前記認定の被告が本件手術を開始したのが最深麻酔期を通り過ぎた時点であつたこと、本件手術に約三〇分を要していることおよびオウロパンソーダの前記作用時間を併せ考えると、本件手術の途上においてすでに真司は非常に浅い麻酔状態にあつたものと推認しうる。

3 ところで前記認定のとおり心停止・呼吸停止に至るまで真司がとくに暴れるようなことがなかつたこと、チアノーゼ症状の発現や血液色の変化がなかつたこと、呼吸停止と心停止とがほとんど同時であつたこと等を総合すると、真司の心停止呼吸停止が前記(イ)の原因すなわち舌根の沈下による窒息に起因するものであつた可能性は少ない。

しかしながら真司が本件手術の途上においてすでに非常に浅い麻酔状態にあつたこと、オウロパンソーダは低酸素症をきたしやすいこと、また副交感神経刺激作用を有していること、本件手術部位が陰嚢であつたこと、小児は気道閉塞や低酸素症をきたしやすいこと、心停止と呼吸停止がほとんど同時に生じていること等を総合すると、真司の心停止・呼吸停止は前記(ロ)の原因すなわち本件手術の途上において真司は不完全気道閉塞の状態になつており、そのために低酸素症や炭酸ガス蓄積を生じ、副交感神経反射が強められて反射性に生じたものと推認せざるを得ない。

四、被告の債務不履行

被告は診療契約に基づき麻酔および手術を施行する医師として、当時の医学における水準的知識・技術を駆使して被術者の生命・身体に危険な結果を招来することのないよう未然に防止すべき注意義務がある。

(一)、術前・術中の検査ならびに措置義務

1  本件のような小児に対して麻酔を施用して陰嚢水腫根治手術を施行する場合においては、前三項認定のとおり、小児は気道閉塞や低酸素症をきたしやすいこと、オウロパンソーダは副交感神経刺激作用を有すること、浅い麻酔時における手術は反射運動の亢進をみ、不完全気道閉塞を起すが、これは低酸素症・炭酸ガス蓄積をきたし、そのために副交感反射を強めること、陰嚢は副交感神経反射を強める部位であること等の極めて不利な条件があるために心停止・呼吸停止を惹起する危険性がある。

(1)、従つて術前検査として口腔内、とくに歯や扁桃腺の状態についての視診、心雑音や呼吸音についての聴診、脈搏の状態についての触診、被麻酔者が副交感神経緊張性が高いかどうかなどを知るための心電図による検査をすることによつて、真司の全身状態を把握する必要があつた。

(2)、また小児は水分代謝が激しいので麻酔施用の三ないし四時間前に水分補給をする必要があつた。

(3)、事宣に応じてオウロパンソーダの有する副交感神経刺激作用を抑制するための前投薬としてアトロピンあるいはスコポラミンを投与するなどの事前措置が必要であつた。

(4)、小児は気道閉塞を生じやすいので、手術中も常に気道の状態を観察し、適切な気道の補助をしてそれを防ぐことが必要であつた。

2  しかるに本件麻酔施用前に、被告が視診・聴診・触診・心電図検査のいずれをも行なつていないこと前記認定のとおりである。

また前二項(二)掲記の各記拠によつても、被告が真司に対して麻酔施用前に水分補給をしたこと、アトロピンあるいはスコポラミンを投与したことはいずれも認められず、他に右事実を認めるに足る証拠はない(なお宗行鑑定によれば、被告が使用したオピスコには1CC中の0.3gの臭化水素酸スコポラミンが含有されていることが認められるけれども、被告本人尋問の結果(第一回)によれば、右薬剤は麻酔を目的として投与されたものであつて、オウロパンソーダの副交感神経刺激作用を抑制するために用いられたものではないことが認められ、かつ右薬剤投与から本件手術まで一時間四〇分を経ていることからして、本件オピスコは前投薬としての作用はほとんど有しなかつたものと認められる。)。

さらに〈証拠〉によれば、被告が看護婦をして真司の脈搏の状態について観察せしめていたことは認められるけれども、同人の気道の状態について注意をつくしていたとは認められず、気道の補助もしていない。かえつて弁論の全趣旨(原告健二の供述する記憶とこれを素材とする宗行鑑定との総合)によれば、あるいは不完全気道閉塞の徴候であつたとも考えられる本件手術中における真司の“いびき”を正常な状態であると判断し、何らこれに意を配つていなかつたことが認められる。

(二)、手術施行時の選択について

宗行鑑定によれば、麻酔の浅い時点で手術を施行すると、本件のような事故が発生することがあるから、それを回避するためには、深麻酔時に手術を施行することが望ましいことが認められる。右事実と前三項認定のオウロパンソーダの作用時間にてらすと、被告が本件手術を最深麻酔期を通り過ぎた時点で開始したことは必らずしも適切であつたとはいい難い。

(三)、蘇生術について

1  宗行鑑定によればつぎの事実が認められる。

心停止・呼吸停止が起きた場合には、まず気道を確保し、自発呼吸が停止しているから他動的に肺換気を維持してやる必要がある。これと同時に循環を維持することが必要であるから、必らず閉胸式マッサージを行なわなければならない。閉胸式マッサージで効果を挙げえない場合には、開胸して強心剤を直接心臓に注射するとともに、マッサージを講ずることが必要である。

また救急蘇生の場合には、アドレナリン・アイソプロテレール・重炭酸ソーダ・カルシューム剤等の強心剤・呼吸促進剤を全身に浸潤するよう心臓か静脈内に注射することが必要である。

なおビタカン・ジキタミンは強心剤・呼吸促進剤として有効ではあるが、右に掲げたものに比してその作用は劣る。テラプチクは呼吸中枢刺激剤で脳の代謝を高めるから蘇生剤として不適当である。

また筋肉内や皮下に強心剤・呼吸促進剤を注射しても全身に浸潤し難いため、十分な作用を期待することができない。

2  前記認定のとおり、被告は酸素吸入と人工呼吸をし、ビタカンを静脈内と皮下に、テラプチクを静脈内と筋肉内に、ジキタミンを皮下にそれぞれ注射した。

従つて被告のした右蘇生のための措置は蘇生術として極めて不完全なものであり、多大の効果を期待しうるものではなかつたことが認められる。

以上認定のとおり、術前検査、術中観察・措置、手術施行時の選択、蘇生術の施行の諸点において被告は債務の本旨に従つた診療義務をつくしたとはいい難く、不完全履行というべきである。

五、被告の債務不履行と真司の死亡との間の相当因果関係について

前三項認定のとおり、真司の死亡は本件手術中に生じた不完全気道閉塞に端を発する副交感神経反射に起因した心停止・呼吸停止によるものであるが、こうした危険を防止すべき本件手術施行上の診療義務に関し債務不履行があつたことは前四項(一)、(二)認定のとおりである。

また本件のような心停止・呼吸停止の際の蘇生術が比較的容易であつたところ、この点に関し債務不履行があつたこと、前四項(三)認定のとおりである。

従つて被告の前記債務不履行と真司の死亡との間には、相当因果関係があるものと認めるのが相当である。

六、被告の帰責事由不存在の抗弁について

ところで前記債務不履行につき債務者である被告に帰責事由なしといえるためには、被告が前四項認定の各措置を講じなかつたことが不可抗力によるか、右措置を講ずることが著しく困難であつた事情を被告において立証しなければならない。

この点に関し被告は、保険医としては視診・聴診によつて異常が認められなければ心電図による検査をする必要がない旨主張する。

保険医療機関及び保険医療担当規則二〇条には、「各種の検査は診療上必要があると認められる場合に行ない、研究の目的で行なつてはならない。」と規定されているところ、前示認定の事実よりすれば、心電図による検査の必要性が保険医の場合においてもとくに除外されるとは到底認められない。

また被告は、最深麻酔時に手術を施行することは事故が発生した場合に対する器具・設備を有しない一般開業医に過ぎない被告にとつて不可能である旨主張する。

しかしながら本件全証拠によるも、被告において前四項掲記程度の診療に要する器具・設備および薬剤を常備しておくことがとくに不可能であつた事情を見出すことができない。

〈証拠〉によれば、被告はオウロパンソーダを二〇年来使用しており、右薬剤の作用時間・薬理作用・副作用等を充分熟知していたこと、陰嚢水腫の根治手術は過去二〇ないし三〇件行なつていることが認められる。また真司の診療録には、本件麻酔投与時や手術開始時、また手術の前後にわたつた本人の症状を示す脈搏・血圧等詳細の記載がなく、〈証拠〉よりしても、被告自身麻酔投与時や手術開始時を正確に確認していなかつたことが認められる。

右事実からしても被告の本件麻酔・手術に対してとつた態度ないし姿勢は、遺憾ながら、惰性に流れ、疎漏杜撰のそしりを免れない。

本件全証拠によるも、その他被告に前四項、掲記の各措置を不可能または著しく困難にする特別の事情を見出し難く、また本件真司の死亡が全く予測しがたい不可抗力によるものとの事実も認め得ない。

従つて被告の帰責事由不存在の抗弁は理由がない。

よつて被告はその診療契約の債務者として、債務不覆行の結果もたらした真司の死亡による原告らの損害を賠償しなければならない。

七、損害

わが子を本件医療過誤により失なつた原告らの精神的苦痛は測り知れないものがある。

ところで〈証拠〉によれば、死因を究明すべく被告からの要望もあつた真司の死体解剖を原告らが拒んだため、解剖所見による資料蒐集の手段を失わせ、死因解明を今日に遷延せしめる結果となり、とりもなおさず本件紛争・提訴の一因となつたことが認められる。かかる場合には、立証困難な、しかもその結果として診療担当者側に立証責任上の負荷を加重せしめかねない現代医事紛争の性質にかんがみ、慰藉料算定上の減額事由として考慮するのが公平の原理に適うものというべきである。

以上諸般の事情を考慮して慰藉料は原告ら各自について一〇〇万円が相当である。

八、以上のとおりであるから、原告ら各自につき被告に対し金一〇〇万円および右金員に対する本件訴状が被告に送達された日の翌日であることが本件記録上明らかな昭和四四年四月一七日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において本訴請求は理由があるからこれを認容し、その余の部分は失当であるからこれを棄却する。訴訟費用につき民事訴訟法九二条・八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用した。

(舟本信光 武内大佳 浜崎浩一)

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